1. 旧中春別農業協同組合のあしあと

 中春別地域の開発は遠く明治の末期に始まり、第1期拓殖時代を経て、昭和7年より第2期拓殖時代に入り、その間中春別光和地区に道立根釧農業試験場の前身である農事試験場が設置され根釧原野開発の基礎となった。

しかし昭和6年、7年と2カ年にわたる未曽有の冷害凶作と農業恐慌に災いされ離農者が続出する結果となり、基盤の弱い農業に対して強い反省が促され、遂次有畜農業に移行される傾向となりつつあった。

昭和22年に公布された農業協同組合法に基づいて、前身であったこれまでの別海村農業会が解散して中春別農業協同組合が設立された。

 戦後の緊急開拓は帰農促進と食糧自給という二大目標達成を目玉とする開拓行政遂行のため、村とともに農業協同組合が果した役割は重大なものであった。

しかし、入植のための中春別地域の自然的、社会的、経済的条件整備のないままに、新規入植者を受け入れねばならなかった実情から、入植者は畑地ができ、収穫をあげるまでの食いつなぎには、開墾補助金と立木を伐採してすぐ現金にできる炭焼に頼らなければ生活できないのが現実の姿であった。

従って組合員の生産も林産物〈木炭・薪〉50%、畜産物30%、農産物20%と変り、林産物の伸びは牛乳生産の停滞に拍車をかける結果になったが、昭和30年をピークとして遂次酪農へ移行していった。

この時期には既存とほぼ同数の新規入植は150戸にも達し、組合員戸数300戸を有するまでになったが、昭和31年、32年の大冷害には甚大な被害を蒙り組合員の経営意欲にも大きな影響を与えた。

このような経過の中で組合員の営農状況は決して楽でなく固定化負債に苦しみ、離農者が続出して組合員も漸減する傾向となった。

これに対処するため組合は、別海村の高度集約酪農地域の指定と隣接するパイロットファーム事業の展開を大きな契機として酪農近代化への転換が急がれることとなり、昭和38年より第一次農業構造改善事業、昭和45年からは第二次農業構造改善事業を実施して土地基盤の整備と生産施設の近代化をはかり、組合員の酪農経営拡充に努めてきた。

組合設立 昭和23年3月23日

2. 旧根釧パイロットファーム開拓農業協同組合のあしあと

 根室、釧路両支庁間にまたがる広大な根釧原野は、多くの入植者が入り営農を進めて来たが旧制度開拓方式では営農の伸展が遅れたため開発が進まず未開の原野が30万ヘクタールも残されていた。

昭和28年春に農業開発調査のため来日した世銀調査団が当地を視察したとき、この原野の有望性に着目し、機械開墾を行うための重機械と乳牛の輸入に対して借款を申し出たことに端を発し、多額の国内資金を集中投入しての新しい開発方式が計画された。

しかし旧制度開拓方式において資金投入の時期が遅れたり、労働的に開墾が伸び悩んだ等の不利な条件を克服して、資金面においては、適期に且つ大量の開拓者資金と世銀資金を投入、そして重機械による短期計画的な開墾、土改をはじめ、入植と併行して遂次建設行事を完了し、短期にモデル的な酪農経営を確立すべく新しい開拓方式が計画された。

昭和31年から実施された根釧パイロットファームの開拓事業は、 昭和39年までに361 戸の入植を見、順調に推移したが、事業開始以来社会経済の著しい伸展と農業をとりまく諸情勢の変遷により当初計画での営農安定は困難となり一部離農のやむなきに至ったので、残地の入植を打ち切り、これを既入植者に増地して、時代に即応した営農目標を樹立し、営農の拡大安定を期するため昭和40年に計画変更が承認され、この目標に向って努力した結果、昭和42営農年度をもって目標を達成し営農の拡充伸展に努めてきた。

組合設立 昭和31年3月15日

3. 新設合併のあゆみ(中春別 ・農業協同組合)昭和49年7月1日設立 根釧パイロットファーム

 両農協は設立以来、農民の協同組織として組合員の経済的社会的地位の向上に努めてきたが、厳しく移り変る社会経済の波の中で、この変遷に対応するために、酪農経済基盤の整備と拡大、営農指導体制の強化、金融対策の積極化等を柱とした諸施策を構じてきたものの、諸物価の高騰と低乳価という不利な現下の酪農情勢に組合員は将来の経営に対して大きな不安感を持たざるを得なかった。

 この危惧感の解消と、豊かな安定した酪農の確立をはかるために、農地の集団化、経営類型の策定、近代化施設の導入を中核として、中春別農協は昭和48年度までに第二次農業構造改善事業を完了し、根釧パイロットファーム開協は昭和48年度より農村施設等総合設備事業を計画実施し、継続して昭和49年度には第二次農業構造改善事業に着手して地区再編基盤を進めた。

 この様な両農協の事業量増大と併せて、今後の農協が果すべき役割は同一である条件の中で別々に運営することは職員の増加を招き人件費が増嵩する結果となり、組合員の負担が増大されるので、この解決策と併せて、事業分量の増加によって生ずる合理性の追求を図るために、両農協が合併して職員の合理的配置で増員を抑制しながら、組合員の酪農近代化と拡大に伴う営農指導体制を一層強化し、牛乳は勿論のこと乳牛個体消流販売体制を確立し、生産、生活資材の共同大量購入等により、経済事業の効率を上げ農協経営の合理化とあいまって組合員の諸要望に対応して地域の総合的発展に奇与するために新設合併となった。

昭和58年8月1日、中春別農業協同組合へ名称変更をする

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